雪の町に降り立った、たった一日の記憶

今年の冬、私はひとりで小さな雪国の町を訪れた。観光地として有名な場所でもなく、駅前に大きな看板があるわけでもない。ただ、白い息と、足もとにきしむ雪の音だけが、静かに迎えてくれる町だった。
旅に出た理由は、はっきりとしたものではなかった。日々が少しだけ慌ただしく感じられて、どこか違う空気を吸いたくなった。それだけだったと思う。けれど、雪に覆われた景色の中に立った瞬間、自分が思っていた以上に、遠くまで来てしまったのだと実感した。
宿へ向かう途中、私は一軒の小さな食堂に入った。昼時を少し過ぎた頃で、お客さんはまばらだった。窓の外では、雪が音もなく降り続いている。カウンターの向こうにいた年配の女性が、静かにお茶を出してくれた。その仕草がとても自然で、この町の日常に、ほんの少しだけ触れたような気がした。
お互いの名前も、これまでどんな人生を送ってきたのかも知らない。ただ、「外は寒いでしょう」と交わした一言だけで、私はその町の温度を、身体で覚えた。こういう出会いは、たいてい名もなく、記念写真も残らない。それでも、なぜか心の奥に、長く残ることがある。あなたにも、そんな一瞬はありますか。
二度と会わないと知っているから、やさしくなれた

その日の夕方、帰りの列車に乗り込むとき、私はもう一度、あの食堂の前を通った。灯りはついていたけれど、入る勇気はなかった。何かを言葉にしてしまったら、この町との距離が変わってしまうような気がしたからだ。
この旅で出会った人たちとは、たぶんもう二度と会わない。そう思うと、少しだけ胸の奥が静かに締めつけられる。でも同時に、その「一度きり」だからこそ、つくろわずにいられたのだとも思う。期待も約束もなく、ただ、そこに居合わせただけの関係。
人は、また会う可能性がある相手に対してほど、言葉を選び、距離を測り、無意識に自分を整えてしまう。でも、二度と会わないとわかっている相手には、不思議と素直になれる。少し笑って、少し黙って、それだけで十分だった。
一期一会という言葉があるけれど、あれはきっと、美しい響きを持つ反面、とても静かな事実でもあるのだと思う。出会った瞬間に、もう別れが含まれている。そう考えると、今ここにいる誰かとの時間も、実はすべて、少しずつ失われていく途中なのかもしれない。そう思うと、不思議と目の前の人に、やさしくなれる気がするのです。
今年の冬は、もう戻ってこないという事実

雪国の冬は、想像していたよりも静かだった。吹き荒れる雪ではなく、ただ淡々と降り積もる白。その中にいると、時間の流れまで、ゆっくりになったような気がした。歩く速度も、言葉の速度も、自然と鈍くなる。
帰りの列車の窓から、遠ざかっていく雪景色を眺めながら、私はふと、「この冬は、もう二度と戻ってこないのだ」と思った。来年、また同じ町に来たとしても、同じ雪は降らない。同じ人とも、同じ言葉は交わせない。時間は、いつも同じ道を通っているようで、決して同じ場所には戻らない。
私たちはよく「またいつか」と言うけれど、その「いつか」は、今とは別の季節で、別の自分の中にあるものなのだろう。今年の私は、今年の冬しか生きられない。その当たり前のことが、雪の町では、なぜかとてもはっきり見えた。
冬は、寒くて、動きづらくて、どこか閉じた季節に思えるかもしれない。でも同時に、すべてが一度、静かに白く塗り替えられる季節でもある。何かが終わり、何かが始まる、その境目に、私たちは毎年、そっと立たされているのかもしれない。あなたは、この冬を、どんなふうに過ごしていますか。
一度きりの出会いが、今の私をつくっている

列車を降りて、いつもの町に戻ったとき、雪はすっかり消えていた。行き交う人も、空気の匂いも、すべてが「日常」に戻っている。それでも、あの雪国で過ごした時間は、確かに私の中に残っていた。
旅先の出会いが、人生を大きく変えることは、そう多くない。大半は、名もつかず、次の日には、またいつもの生活に飲み込まれていく。でも、その中のいくつかは、なぜか心の片隅に、長く置かれ続ける。思い出したくて思い出すのではなく、ふとした拍子に、向こうから顔を出してくるような記憶。
あの雪の町で交わした、短い言葉や、何も話さなかった時間。そのすべてが、今の私のどこかを、ほんの少しだけ形づくっている。人生は、劇的な出来事だけでできているわけではなく、こうした名もない瞬間の積み重ねで、静かに編まれていくのだと思う。
今年の冬は、もう二度と来ない。あの雪も、あの出会いも、あの時の私も、すべて一度きりだ。でも、だからこそ、その一度の中に、確かな重さが生まれるのかもしれない。
次に訪れる冬も、また別の景色と、別の出会いを連れてくるだろう。私はそれを、特別なものとして構えすぎず、ただ、通り過ぎる季節の一つとして、静かに受け取りたい。今日という日も、きっといつか、戻らない一日になる。そのことを少しだけ忘れずに、私はまた、いつもの生活へと足を向ける。

