
朝の改札で、人はそれぞれの人生に戻っていく 同じ地域に住み、同じ時間に同じ場所を通過するけど、行く場所はみんな違う。
一生に一度しか見ない人もいるだろう。
改札に集まる、無数の「はじまり」
朝の駅は、いつも少しだけ空気が張りつめている。
眠気の残る顔、足早に歩く背中、コーヒーの紙カップを片手にした人。私はその流れの一部になりながら、決まった改札へ向かう。ここは毎朝、同じようでいて、同じ朝は一度もない場所だ。
同じ地域に住み、同じ時間に同じ場所を通過する私たち。でも、そこから先の行き先は、みんな少しずつ違う。職場へ行く人、学校へ向かう人、どこか遠くへ旅立つ人。もしかしたら、その中には今日を最後にこの駅を使わなくなる人もいるのだろう。一生に一度しか見ない顔が、この人混みの中に、たくさん紛れている。
改札の前に立つと、カードをかざす小さな音が、次々と鳴る。その一音一音が、それぞれの人生の続きを押し出しているみたいに聞こえるのは、少し考えすぎだろうか。私はその列に並びながら、見知らぬ誰かの「今日」と、自分の「今日」が同時に動き出す瞬間に、いつも小さなめまいのような感覚を覚える。
ここでほんの一瞬、同じ空気を吸っているだけの私たち。
あなたは、この中の誰かと、もう二度と会わないかもしれないと想像したことはありますか。
名前も知らない人たちと、同じ朝を生きている
改札を抜けると、ホームへ向かう通路に人の波ができる。前から歩いてくる人、後ろから追い抜いていく人。そのどれもが、私にとっては「名前も知らない誰か」だ。だけど、不思議なことに、私たちは今この瞬間、同じ朝を共有している。
誰かは大切な会議に向かっているのかもしれないし、誰かは初めての場所へ行く途中かもしれない。誰かは心の中に、小さな不安を抱えているかもしれないし、誰かは胸の奥で、そっと期待を温めているかもしれない。でも、そのどれもが外からは見えない。ただ静かに、同じホームに立っているという事実だけがある。
私は時々、この「何も知らない」という距離感に、ほっとする。相手に何かを求められるわけでも、求めるわけでもない。ただ、同じ場所にいるという、それだけの関係。こんなにも近くにいながら、こんなにも遠い関係は、少し不思議で、少し優しい。
人は一人で生きているようで、こうしてたくさんの人に囲まれて生きている。
それでも、心の内側は、自分だけのまま静かに守られている。
そのバランスが、朝の駅には、ちょうどよく漂っている気がする。
もしここで、誰かと話し始めたら、どんな言葉を交わすのだろう。
そう思ってみるけれど、たぶん私は今日も、言葉を交わさないまま、それぞれの行き先へ分かれていくのだと思う。
改札の向こうで、人はそれぞれの人生に戻っていく
改札のゲートが開く瞬間は、いつも少しだけ不思議だ。
外から見れば、ただの通過点。でも、私の感覚では、あそこは「現実に戻る扉」みたいな場所でもある。カードをかざして一歩前に進むと、そこから先は、私の役割や立場や、今日やらなければならないことが一気に押し寄せてくる。
家を出るまでは、まだ「私」だった。
でも改札を抜けた途端、「誰かの同僚」になり、「誰かの部下」になり、「誰かの一員」になる。もちろん、それが嫌だというわけではない。ただ、その切り替わりの瞬間が、私は少しだけ切ないのだ。
周りの人たちも、同じようにそれぞれの役割を背負って、あのゲートをくぐっていくのだろうか。そう思うと、さっきまで見ていた無数の背中が、急に重く見えたり、頼もしく見えたりする。
私たちは皆、自分の人生の中では主役だけれど、誰かの人生の中では、ほんの一瞬通り過ぎる通行人にすぎない。
その事実を、改札は毎朝、静かに教えてくれる。
それでも、人はまたここへ戻ってくる。
一日を終えて、またこの場所を通過して、それぞれの帰る場所へ向かう。
行って、戻って、また行く。その繰り返しの中に、人生はゆっくりと積み重なっていくのだろう。
あなたは、毎日通るその場所で、自分が「役割に戻る瞬間」を意識したことがありますか。
すれ違いだけで終わる関係にも、意味があるのだとしたら
朝の改札ですれ違った人たちとは、たぶんもう二度と話すことはない。それどころか、顔さえ思い出せないかもしれない。それでも、その一瞬の共有は、確かに私の一日の一部になっている。
何も言葉を交わさなくても、目が合わなくても、私たちは確かに同じ時間を生きていた。
それだけで、もう十分なのではないかと、最近は思うようになった。
何か特別な関係を築かなくてもいい。
深く関わらなくてもいい。
ただ、同じ朝に同じ改札を通ったという、その小さな事実だけが、静かに積み重なっていく。そうやって、誰の記憶にも残らないような出来事が、実は一日の大部分を占めているのかもしれない。
私は今日も、いつもの改札を通った。
特別なことは、何もなかった。
でも、それでいいのだと思えるようになってきた。
この世界には、目立たないけれど確かにある「すれ違い」が、星の数ほどある。そして私も、その一つひとつの中を、歩いている一人なのだろう。
明日の朝も、きっと私は同じ改札を通る。
また新しい誰かと、言葉を交わさないまま、すれ違っていく。
その静かなはじまりを、今日も少しだけ大切に思いながら、私は今日の一日へと足を運ぶ。
